心が洗われすうっと浄化される、そんな感覚を久々に味わった。五感が研ぎ澄まされ、繊細になると同時に癒される。まるで純粋で澄み渡った水を飲んだ後、清らかな雲の中にいるような幸福感。
美食のこの上なく純粋な姿に出会った清々しい気持ち。
明寂は麻布十番の目立たない小径にひっそりと佇んでいる。店主の中村英利氏が4月にオープンして同年東京ミシュランで2つ星をストレート獲得した。グルメ激戦区東京の最前線に突如現れたこの店は、今や3月末まで満席となっている。予約殺到の対応に追われ、少々戸惑っている様子だ。
日本料理の品格
店に足を踏み入れると、内装は「和」特有の静かな高級感。カウンターは8席。個室は2室。
京料理よりも江戸の味を主張する料理人。華美な装飾などは全くなし、素朴かつ直球でありながら、限りなく繊細。香り、味わいのひとつひとつが完璧に極められており、息をのむほど正確な風味が口に届く。
「日本料理は引き算でフランス料理は足し算」、しょっちゅう耳にする「和」の定義だ。でも、違うと私は思う。高級日本料理でも他国の料理と同じく演出があり、そこではある種「偽り」の素朴さを作り上げている。豊かになった日本の今日の料理には無駄なものが加算されることが少なくない。貧しい土地だからこそ「-(いち)の美味」、ピンと張った一本の白い糸のような美食を作り上げた日本人の知恵は忘れられがちだ。
ところが、明寂は違う。一口一口が滋味に溢れているが、純化された味わいだ。味覚に突き刺さる、痛いほど鋭い味わい。半世紀近く前の京都「千花」や東京「丸梅」で食したのもこの感覚だった。味も盛り付けもまったく違うが、透き通るような純度が似ている。現代にアレンジしたスタイルでありながら、フォアグラやキャビアといった本来の日本料理を重く濁らせる食材は一切使われていない。
一番だし
「一番だし」と名付けられたこの一品は、椎茸・水・塩の3つの材料だけで作られている。愛知産の椎茸からは力強くも非常にきめ細かいうま味の出汁。水はどこだったか、名前を聞いていないと思うが酒蔵の美しい水を使用。そして、瀬戸内海のゆったりと甘みを含む塩。
味覚を全く飽きさせない。椎茸の煮加減は完璧。歯ごたえはしっかり、噛むと独自の自然な出汁がジュっと、絶妙な食感。一瞬とも無駄のない碗は最後の一滴まで飲みつくす。
源平和え
源平の名に因んで2つの要素で構成される源平和えだが、ここではボラの生カラスミと白子をつかっている。「あまりに美しいので生のまま使いました」とのこと。その下には柿と洋ナシでダブルの源平和えとなっている。
お造り
刺身は、さっと茹でたアシアカ海老を厚めに切って身の歯ごたえが楽しめるようになっている。厚めの鯛と湯引きした皮。
沢煮椀
大根、ネギ、菊の花、エノキダケ、マコモタケの入った沢煮椀。澄んだ熊汁に身も心も温まって大満足。
ブリと大根おろし
出された料理はシンプルそのものだ。しかしなんと味わい深い一品だろう。干し草で燻したブリの表面は炭で思いっきり厚くカリカリに焼いてある。大根おろしは、一度煮詰めた汁に再び大根おろしを混ぜている。パリにいるととっても恋しい日本の大根の甘みと瑞々しさ。「大変ご無沙汰でした」と手を合わせて挨拶したいくらい嬉しい。
そこに塩レモン汁に葛でとろみをつけ、甘唐辛子をひとつまみ。
パリパリの皮からは、ほんのりと燻製の香りがしてきてたまらない。その真下にブリの甘い脂が……
皮から離れるにつれて徐々に脂が薄れ、身のジューシーな歯ごたえと交代して行く。瑞々しく繊細でありながらしっかりと締まった魚に見事な塩加減がされている。
東寺蒸し
絹巻き寿司
絹巻き寿司とは一体?白い紙のような帯のようなものの上に、酢飯と何かがのっている。これは白身の錦糸卵です、と中村氏が説明してくれる。なぜこんなに白いの?白身だけしか入っていないの?という私の質問には「いいえ、風味を出すために黄身も入っています。これは白い餌を食べた鶏の卵なんです」との答え。鶏のエサはそのまま卵の色に反映されるのだ。なるほど……
酢飯の上には、魚(メヒカリ)の頭と尻尾を揚げたものがのっている。さらに、食べる直前に厨房の炭で焼いた胴体を持ってきてくれて、上にのせてくれる。それから、帯のような錦糸卵を自分でくるくると巻いて巻寿司(春巻き?)にするのだ。
このメヒカリという魚は身が非常に淡泊で、美少女のようなデリカシーを秘めている。熱々に揚げた頭、骨、尻尾のサクサク感と、柔らかくふわっと焼き上げた胴体との相性を、優しくしとやかな錦糸卵が包む三位一体。魚は切り身にせず骨だけ取り除いてあるので、厚みがあって噛み応えが美味い。何層もの食感を満喫させるこの料理は、焼いた身が主役なのか、揚げた殻が調味料なのか、錦糸卵がフランス料理のパテアンクルートの生地のような役割を果たしているのか、分からないまま食べ終わってしまった二口の幸福だった。